最初の一歩を教えるということ

小学校の教師のほうが、高校の教師よりある意味大変だという話はよく聞きますよね。勉強を教えるという面だけでなく、基本的な生活のしつけなどもその仕事の中に入ってきますからね。

中学の頃、初めて英語を習いました。そのとき、特に感情を表す単語とその訳語である日本語は完璧に一致はしていないんだろうし、ああそれって、きっとずっとこの世が続く限り分かり合えない平行線なのだと思った。極端に言うと、「happy」っていう言葉は概ね幸せ、とか、楽しい、みたいな意味がありますよね。もしかして誰も追及しないけれど、英語圏の人は実はもっと違う何か、「こそばゆい」とか「イライラする」とかの感情も内包してたらどうしよう……。そもそも、幸せ、とか、楽しい、とか、英語なら一単語で表せるものを二つで表現しなきゃいけない時点で、すでに意味が違いますよね。こうやってどんどんどんどんずれていって地球が爆発したらどうしよう……みたいな……。

逆にテクニカルタームを使った専門的な会話なら、その辺は心配ないんです。放射性同位元素も市場原理型資本主義もそれ以外のファジーな要素が入る余地はまったくない。それで終了です。

こうやって冒頭のどっちの先生がより大変かという問題に帰ってくるんですが。やっぱりはじめの第一歩は難しい。でも、例えば直感的な身体の動かし方のように、教えるというよりは自然と分かるものでもあるんでしょうね。

そしてうちの息子も、喃語から少しずつ意味のある言葉を話しだす段階になっていきます。
まあ、だから、彼が最初に、無意味な口から出る音がキモチや物を表現するものでもあるということを、一番最初に、ぴんと気付かせる鉄板の方法があるのかといったらない気がする。むしろどう気付かせるんだい。褒められてもわーっとした気持ちと、お腹が空いていてご飯食べキャッキャした気持ちは、感じるところはまったく別物かもしれない。でもまあ、両方「嬉しい」ってことにしようよ。という非常に込み入った内容を、言葉を解さない赤子にどう教えたらいいのか。そして、「お母さん褒められてもわーっとした気持ちと、お腹が空いていてご飯食べキャッキャした気持ちは、僕的には全然別の気持ちだから同じ言葉で表現するのは嫌だ」と言われたら、さてどう、答えてあげようかなあ。